日常トライ&エラー

オーケストラからアメリカンフットボールに転身したら、でかくなりすぎて親に認識されなくなったサラリーマンの日常。

私の男よりも、渇きが見たい

 

変化にうるさくない人っていいなと思った。

昔読んだ新書に、人っていうのは常に動的平衡の中にあるとかなんとか書かれていた。

つまり、人は一分一秒変化し続けているということ。

だから、変化は人にとって常に身近にあるものであって、昨日の自分と今日の自分というのは厳密に言うと違う存在である。

 

ちょっと考えるとわかることだが、これを忘れている、そもそも気にしたことがないという人が多すぎるように思う。

 

 

お前はみながお前のために生きることを望んでいるのか、みんなが自分よりお前を愛するようになってもらいたいのか?お前のその望みがかなえられる状態は、一つだけである。

それは、あらゆる存在が他人の幸福のために生き、おのれよりも他の存在を愛するような状態だ。そういう場合にのみ、お前も他のすべての存在も、みなに愛されるようになるし、お前もその一人として、望み通りの幸福をさずかるだろう。お前にとって幸福の可能なのは、あらゆる存在が自分よりも他を愛するようになる時だけだとしたら、お前も、一個の生ある存在として、自分自身よりも他の存在を愛さなければならない。

 

トルストイ 人生論

 

 

勝利を望むなら、それをなしとげるための努力が必要だ。 ピンポン 9話

鏡の角度とかで大きさとか変わるから、自分の本当の大きさは実際にはわからない

 ぱっと考えていたことを忘れたときに、「すぐ忘れるってことは、そんなに大事なことじゃなかったんだよ」という人がたまにいるが、そういうときに忘れてしまうことこそ、重要なことだったりする。

 

 

 最近は考えて動くようにしている。腕とか足をどう動かしたらいいとか、主に体のことについてではあるが。

 入部したとき、「考えること」をやめようと思った。他人に流されて生きていこうとしたのではない。

 

もともと、自分は何かと極端な傾向があった。「考える」ということもその一つで、一度考えるとそのことばかり頭の中にあるのだ。

そういうときは、時間を持て余しているときで、忙しいとき、とくに慣れない環境に順応しようとするときはあまり考えることはなかった。この部に入部したのは、どれだけ慣れようと必死になっても最後まで慣れることがないような環境に身を置けば、考えなくなるだろうと考えたからだ。

 

結論からいうと、自分はほとんど考えなくなった。

 

「みんな自分の体の動かし方をわかっていない。その状態で練習を重ねると、少しは上手くなるが、伸び悩むときがくる。」

 

武井壮がそう言っている動画を最近見た。

人間はとりあえず環境に慣れようとするのではないか。そして自分は早く慣れようとするあまり極端に考えなくなってしまったのではないか。

 

 

まあいいやとは言いたくないが、とりあえず考えることを考えるのはここでやめる。

それがつっかかりになって、邪魔だった。

 

 

 

4月12日 哲学者は全知者と無知者の中間 

プラトン 哲学入門 三木清

 

タイミング

2013年1月

 

 

1月25日からの生活。

今週1週間が終わろうとしている。たしかhal東京のcmに「今日も勝負したか?」というセリフがあったが、ほとんど、いやまったく勝負していない。

土俵にすら立ってない。

観客だ。

部活のトレーニングで追い込むぐらいしか勝負していない。

何やったんだかわからない日があるのは情けない。記憶に残っているのは火曜と木曜と金曜ぐらいか。

木曜は久しぶりに1日に4つ授業に出て、部活もした。

今日土曜日はというと本当はちょっとした飲みがあり、ものすごく楽しみにしていたのだが明日朝早いことや人数の関係で延期になってしまった。そのため4時くらいから予定がなくなってしまった。なんだか最近は1日を充実させることに義務感を感じてしまい、「何かしなくちゃ出かけなきゃ」という言葉に捕らわれていた。こうしてみると1月はまったく落ち着いてない。結局今日は、バイオリンを弾いてやろうかと思ったがうるさすぎてやめ、ちょうど届いた中村佑介のカレンダーをポスターにしようとコピーしに行って、パソコンいじって今にいたる。勉強するか。

 

ps:把瑠都大関じゃなくなっていたことを最近知った。

 

ps:東京でも火の用心!!とかやるんですね。ヘッドホンつけてると、声が少しこもって怖い。