日常トライ&エラー

オーケストラからアメリカンフットボールに転身したら、でかくなりすぎて親に認識されなくなったサラリーマンの日常。

星新一「無から有をうみだす

「無から有をうみだすインスピレーションなど、

 そうつごうよく簡単にわいてくるわけがない。

 メモの山をひっかきまわし、腕組みして歩きまわり、溜息をつき、

 無為に過ぎてゆく時間を気にし、焼き直しの誘惑と戦い、

 思いつきをいくつかメモし、そのいずれにも不満を感じ、

 コーヒーを飲み、自己の才能がつきたらしいと絶望し、

 目薬をさし、石けんで手を洗い、またメモを読みかえす。

 けっして気力をゆるめてはならない」

メモにも新鮮さがあるから、早く捌いてやらないとただの記憶になる。

茄子の浅漬けを作りたかったが、ファミリマートに浅漬けの素は売ってなかった。

万能なコンビニに期待しすぎてしまった。

 

「国際感覚を身につけるなら拓殖大学!」

 

最近のコンビニではラジオの合間に私立大学の宣伝が流れている。

 

「国際感覚」ってなんだ。

国際的な感覚、センスのことを言っているなら、外国に行けばいい。

拓殖大学についてはスポーツが強いくらいの認識なので、学問についてはよくわからない。

「国際感覚」のスペシャリストがいるのかもしれない。

 

こういう広告に惹かれて受験する人は、その大学が何かを変えてくれる、何かを提供してくれると期待する、世間知らずで他力本願な人ではないだろうか。

 

しかし、悪いということを根源的な原因とするならば、悪いのはそういう人ではない。私立大学でもない。

 

それは、大学には行ったほうがいいという盲目的な世間の圧力だ。

 

どうやったら変えられるのだろうか。

 

少なくとも、「とりあえず行く」、そんなコンビニ感覚で行くようなところではないはずだ。

 

 

なんだかわかんねえわ

デモというのを初めて見た。高校の現代文の授業でデモを撮るカメラマンの群集の話を扱ったのを思い出した。確かに熱量はあった。

連れてこられた子どもは眠そうだった

 

なんだかよくわからん。もっと懐大きく行こうぜ。極に走るのはよくない。

どこから子供でどこから大人なのか、一応20で成人とはなってるけど、その区別って曖昧。確か35歳くらいまで青年らしいよ。

 

お前らは子供だ、と最近言われた。

じゃあ子供ってなんだ。

自分のイメージだけど、子供は思ったことを口に出す印象がある。

「あっ車だ、(ブーブーとか擬音で言うこともあるけど)」、とか

大人になるにつれて、思ったことをその場で言わなくなる。

それは、”空気を読む”ってことがいい意味でも悪い意味でもできるようになるからだと思う。

学生、とくに高校生とか大学生とか、社会と学校との境界にいるような時期は思ったことを言える、言えないの間にいるように思う。

 

ただ、その思ったことを陰で言う。

それがよくない。自分もたまに言ってしまうときもあるけどね、、、

小さな子供は思ったことを言うけど、それは対象の外的印象しかもっていないからだ。

車はなんか動いている機械、人を乗せる機械。

それがどう作られているのかなんて、まあ知らない。別に知らなくていい。

対象がモノならそれでいいと思う。

 

だけど、徐々に人に触れるようになる。

第一印象は確かに大切だ。間違いない。

でも、人ってのはそういった枠だけではない。中身がある。

 

そんなこと、大学生だって分かってる。

ただ、その中身を見ようとしないから、決めつける。

 

じゃあ見ないのは悪いのか。そんな会う人会う人に興味はもてないよ。

 

わかる。

 

だから、結局は外見(身だしなみ含め、動作とか)。

 

だけど、中身もあるんだってことを忘れるな。

決めつけるのはよくない。

 

PS)ただ、社会にでると、そんなにちゃんと見てくれるチャンスなんてなかなか無いんだろうね。

 

この前、「運動部はなぜ就職でモテるか?」って質問にいい意味でも悪い意味でも、やれと言われたらやるから、と答えたが、今思えば結局は体力がものいうからと答えればよかった。