どこから子供でどこから大人なのか、一応20で成人とはなってるけど、その区別って曖昧。確か35歳くらいまで青年らしいよ。
お前らは子供だ、と最近言われた。
じゃあ子供ってなんだ。
自分のイメージだけど、子供は思ったことを口に出す印象がある。
「あっ車だ、(ブーブーとか擬音で言うこともあるけど)」、とか
大人になるにつれて、思ったことをその場で言わなくなる。
それは、”空気を読む”ってことがいい意味でも悪い意味でもできるようになるからだと思う。
学生、とくに高校生とか大学生とか、社会と学校との境界にいるような時期は思ったことを言える、言えないの間にいるように思う。
ただ、その思ったことを陰で言う。
それがよくない。自分もたまに言ってしまうときもあるけどね、、、
小さな子供は思ったことを言うけど、それは対象の外的印象しかもっていないからだ。
車はなんか動いている機械、人を乗せる機械。
それがどう作られているのかなんて、まあ知らない。別に知らなくていい。
対象がモノならそれでいいと思う。
だけど、徐々に人に触れるようになる。
第一印象は確かに大切だ。間違いない。
でも、人ってのはそういった枠だけではない。中身がある。
そんなこと、大学生だって分かってる。
ただ、その中身を見ようとしないから、決めつける。
じゃあ見ないのは悪いのか。そんな会う人会う人に興味はもてないよ。
わかる。
だから、結局は外見(身だしなみ含め、動作とか)。
だけど、中身もあるんだってことを忘れるな。
決めつけるのはよくない。
PS)ただ、社会にでると、そんなにちゃんと見てくれるチャンスなんてなかなか無いんだろうね。
この前、「運動部はなぜ就職でモテるか?」って質問にいい意味でも悪い意味でも、やれと言われたらやるから、と答えたが、今思えば結局は体力がものいうからと答えればよかった。
渇きよりも、寄生獣が見たい
大学3年目の焦り
1日が早い 1週間も早い
私の男よりも、渇きが見たい
変化にうるさくない人っていいなと思った。
昔読んだ新書に、人っていうのは常に動的平衡の中にあるとかなんとか書かれていた。
つまり、人は一分一秒変化し続けているということ。
だから、変化は人にとって常に身近にあるものであって、昨日の自分と今日の自分というのは厳密に言うと違う存在である。
ちょっと考えるとわかることだが、これを忘れている、そもそも気にしたことがないという人が多すぎるように思う。
お前はみながお前のために生きることを望んでいるのか、みんなが自分よりお前を愛するようになってもらいたいのか?お前のその望みがかなえられる状態は、一つだけである。
それは、あらゆる存在が他人の幸福のために生き、おのれよりも他の存在を愛するような状態だ。そういう場合にのみ、お前も他のすべての存在も、みなに愛されるようになるし、お前もその一人として、望み通りの幸福をさずかるだろう。お前にとって幸福の可能なのは、あらゆる存在が自分よりも他を愛するようになる時だけだとしたら、お前も、一個の生ある存在として、自分自身よりも他の存在を愛さなければならない。
トルストイ 人生論
勝利を望むなら、それをなしとげるための努力が必要だ。 ピンポン 9話
鏡の角度とかで大きさとか変わるから、自分の本当の大きさは実際にはわからない
ぱっと考えていたことを忘れたときに、「すぐ忘れるってことは、そんなに大事なことじゃなかったんだよ」という人がたまにいるが、そういうときに忘れてしまうことこそ、重要なことだったりする。
最近は考えて動くようにしている。腕とか足をどう動かしたらいいとか、主に体のことについてではあるが。
入部したとき、「考えること」をやめようと思った。他人に流されて生きていこうとしたのではない。
もともと、自分は何かと極端な傾向があった。「考える」ということもその一つで、一度考えるとそのことばかり頭の中にあるのだ。
そういうときは、時間を持て余しているときで、忙しいとき、とくに慣れない環境に順応しようとするときはあまり考えることはなかった。この部に入部したのは、どれだけ慣れようと必死になっても最後まで慣れることがないような環境に身を置けば、考えなくなるだろうと考えたからだ。
結論からいうと、自分はほとんど考えなくなった。
「みんな自分の体の動かし方をわかっていない。その状態で練習を重ねると、少しは上手くなるが、伸び悩むときがくる。」
武井壮がそう言っている動画を最近見た。
人間はとりあえず環境に慣れようとするのではないか。そして自分は早く慣れようとするあまり極端に考えなくなってしまったのではないか。
まあいいやとは言いたくないが、とりあえず考えることを考えるのはここでやめる。
それがつっかかりになって、邪魔だった。
4月12日 哲学者は全知者と無知者の中間
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